小川真樹
JIA登録建築家、一級建築士、管理建築士
建築を設計する前提として、場所の特性を読み解くのと同じくらいに人間を理解することが大切だと考えています。つまり、主宰者自身が依頼主や使う人との間で理解を深めることがとても重要で、独立してから24年、ずっと変わらずに数人の小規模な設計事務所でいるのはそのためです。
設計する建築の用途も様々で、何かの専門になろうと思ったことがありません。手がけたことの無い建築でも、依頼主と一緒に考え、研究することで良いものが必ずできます。比較的御相談の多い「寺社建築」や「音響関係」、「集合住宅や宿泊施設」であっても、最初は一からの勉強であり、それが楽しみでもあります。
また、学生時代から生物の形や生態系のありように興味があり、個人的な研究課題でもあります。それは実は建築に深く関係していることでもあるのです。
(記:2022年11月)
著作
「言葉」 | 2020年/ 日本建築家協会会員誌コラム |
『エスキスって何?』(共著) | 2019年/ 彰国社 |
「公共機関による 私設小ホールのネットワーク化」 | 2015年/建築学会論考集 |
「不思議な設計依頼」(共著) | 2014〜2015年/「住宅建築」連載小説 |
「道往寺プロジェクト - これからの仏教寺院を考える - 」 | 2013年/「KJ」掲載 |
「かたち」 | 2013年/「住宅建築」BOOK REVIEW掲載 |
「樹形の成長シミュレーター」 | 2013年/「住宅建築」掲載 |
『北欧の巨匠に学ぶ図法』(共著) | 2012年/ 彰国社 |
「遮音スタジオと都市景観」 | 2010年/「KJ」掲載 |
「新しいホテルの形式 - ロードサイドスタイルへの模索-」 | 2008年/「KJ」掲載 |
「光天球の中で生長する樹形」(共著) | 1986〜1987年/ジャパンランドスケープ連載 |
「光天球の中で生長する樹形 (1)(2)」 (共著) | 1986、1988年/形の科学会誌 |
影響を受けたひとたち
以下は、事務所設立時に書いた「影響を受けた3人」についての短文ですが、今も変わらないことなので掲載することにしました。
父の話
最初に、ここでは私の亡くなった父の話を少しします。私は今までことさらに仕事の上では父の話をしないようにしてきたように思います。父の仕事がイメージの強いものだったので、先方にある種の先入観を持たれるではないか、という考えがあったのかもしれません。
父は小川英というペンネームで仕事をしていたシナリオライター(脚本家)でした。デビューは日活アクションですが、非常に多作な人で主な仕事はTVのシリーズものでした。『太陽にほえろ!』のメインライターであった他、『遠山の金さん』『暴れん坊将軍』などの時代劇も多く、生涯本数は2000本弱だったと思います。『太陽』のころには、週に数回は真夜中に二人組の(悪者のようですね)プロデューサーの方々が自宅に見えて、延々と父と議論を戦わせていました。
(私の)子供部屋の隣室で『殺し方が違うよ。』だの『濡れ場はだめだってば。』だのを明け方までやってるわけで、プロデューサーの方は私の受験勉強が心配だったようですが、こちらは面白くて壁に耳をひっつけて聞いていたわけです。
私とは全く違う仕事です。。。ところが最近仕事をしていると、実は自分は父と似たようなことをやっているのではないかと感じることがあるのです。『脚本』とはドラマを創る上での『設計図』のようなものですから、それ自体は不思議なことではないのですが、考えると周囲の関連性がよく似ています。
建築 | テレビドラマ |
施主 | スポンサー |
ディベロッパー | TV局 |
PM | プロデューサー |
設計者 | 脚本家 |
現場所長 | 監督 |
職人 | スタッフ |
建築材料 | キャスト |
利用者 | 視聴者 |
役者さんだけがかわいそうに『モノ』になってしまいましたが、良く対応します。
その上、PM(又は施主)と私、現場所長と私、それぞれのやりとりが濃密に熱を帯びるほどにその建築は良いものになるような気がしますし、そのあたりも先の話によく似ているのです。
父は大衆(視聴者)というものの中に映画の芸術性を見ようとした人でした。建築における芸術性というものを言うのであれば、それは建築家や歴史家の内なる世界だけからは生まれず、建築を使う人を第一義に見据える中からこそ生まれると考える私と似ているようにも思えてくるのです。
師と樹形の話
次に、私が東京芸術大学大学院在籍中に研究室担当教授であった奥村昭雄先生と始めた研究の話をします。奥村先生は現芸大名誉教授で、OMソーラーの開発者でもあります。
大学に通う道である上野公園の木々を眺めているうちに、様々な木の形は実は共通のルールによって形作られているのではないか?というような話になり、ちょうどそのころ研究室に導入された16ビットパソコンを使って、最初は遊びのように始めた研究です。パソコンは建築の本業であるパッシブソーラーの熱環境シミュレーションの傍らで、遠慮がちに、時には傍若無人にこの研究にも使われることになったのでした。
観察と試行錯誤の結果、それらのルールは分枝の角度などの11のファクターに整理されました。このプログラムは代謝系をシミュレートできるところがポイントで、数千という全ての枝先で受光量を計算し、周辺の環境までをとりこんだ自己代謝の中で植物が生育していきます。具体的には受光量の低い枝はやがて枯死して消えていき、受光量の多い外縁付近では徐々に枝先密度が増して『樹冠』が形成されるのです。こうしたコンピユーターの中で育つ様々な木々の姿はたいへん感動的です。
というわけで、20年前の16ビットパソコンで書いたプログラムに対して、未だに類似のものが現れないため、最近でも思いついたように復活しては奥村先生とともに研究を継続しています。 画像は檜に似たパラメータを持つ木の成樹の姿で、三次元の平行法の立体画像になっています。御覧になってみて下さい。このプログラムは未だに未発表ですが、もう少し完成度をあげてから発表したいものだと考えています。しかしながらN88-BASICという『古語』で書かれた長大なプログラムを『現代語』に翻訳するだけでひと苦労で、現状は奥村先生の手によって『20年前』から『10数年前』の言語レベルに引き寄せたにとどまっています。あとは私が『現代語』にしなければならない番なのですが。。。
ところで、環境との呼応によってひとつの代謝系がその姿を変容してゆく姿を理解することは、実は建築と無関係のお話ではありません。一つの建築の一生も、群れとしての建築の一生も、いくつかのファクターによって生み出され環境との呼応関係の中で変容します。又、長い歴史の中での建築の変化にも同様のことが言えるでしょう。
私にとって建築の最初の師であった奥村先生からは、毎日毎日繰り返された議論と、信じがたいほどに面白いコンピューターの中で育つ木々の姿を通して、そうしたダイナミックな物の見方を教えられたように思います。
ボスの話
最後に、私が独立までの14年間お世話になった、MIDI綜合設計研究所所長の三上祐三さんの話を少しします。今でも私の頭の中では所長ですので以下そのように書かせていただきます
日本における三上所長は、私が新入所員として担当させてもらったBUNKAMURAオーチャードホール等の設計者として知られていますが、ヨーン・ウッソン氏の設計したシドニーオペラハウスの設計に初期の段階から参加し、ウッソン氏が手を引いた後も構造設計を行ったアロップ社のメンバーとして最後までその建築の完成にかかわった人です。その完成までの長くて教訓に満ちたお話は、彼の著作である『シドニーオペラハウスの光と影/彰国社』に任せるとして、ここでは私の所員時代に印象深かったことなどを三上所長の言葉を借りて4つ書くことにしましょう。
使う人を考えろ
これは毎日のように言われた言葉でした。この言葉のポイントは、使う人イコール金を出す人。ではないことです。建築家の依頼主は『金を出す人』なわけですが、そうではなく建築を使う人に目を向けろということであり、それがとりもなおさず最終的には金を出す人の利益にもなる。それが判断できるのが建築家の職能のひとつなのだと、そのように私は感じています。これはとても基本的なことなのですが、今も私のモットーのようになっている言葉です。
目ではなく耳で設計せよ
これは直接には彼の得意とした音楽ホールの設計にしか当てはまりませんが、その建築の機能として最も重要なことを認識すべし。という意味で普遍的だと感じています。
全体の一部である
私が担当した照明器具のデザインにのめり込んだときに、普段はスタッフ室で怒鳴られているにもかかわらず、所長室に呼ばれて静かに言われました。『このデザインは単独では良く出来ているかもしれないが建築全体のバランスを崩すことになる。だから俺がやりなおすからそれを理解しろ。』
所長のスケッチを元に完成した照明器具は建物を引き立てるもので、そのときの諭し方に強いものを感じました。ディテールは全体の為にこそ在り、引いて俯瞰できることが大切だということと思います。
君たちが労働組合を作れば俺もメンバーになる
そんなことできませんね。妙な言葉ですが、単に給与や労働時間のことにとどまらず、毎年全額会社持ちの所員旅行をしたり、忙しくてもお茶の時間には全員あつまるように勧めるなど、三上所長は設計事務所の労働環境を大切に考える人だったのだと感じます。こういうことはなかなか公にはなりませんが、実は健康的な発想を成すためにも事務所経営者にとって大切なことなのです。
若者にとってはハングリーであることは大切ですが、同時にどこかで『所長が所員になりたい』と思うくらいの環境を用意できていることも忘れてはならないのでしょう。
御活躍中の三上所長について書きすぎたようです。このぶんでは所員時代のように怒られそうですね。
(三上祐三さんは、2020年9月に89歳で亡くなられました。以下に、私が毎日新聞に寄せた追悼文を掲載いたします。2022年11月)
三上祐三さん・建築家 老衰のため8月27日死去 89歳
愛と規律
2020年10月5日 毎日新聞 朝刊
大好きな蓼科の山に抱かれて、建築の師・三上祐三さんは眠っていた。その穏やかな眠りですらも、妥協のない御自身でデザインしたことであるかのように。
波乱に富んだ三上さんの生涯の全容を知る人は少なく、夫人で音楽家のかーりんさんだけだったのかもしれない。そして、三上さんの建築の中でも「音楽」は重要なテーマだった。ヨーン・ウツソンの事務所から構造のアラップ事務所に移籍しながらシドニーオペラハウスを設計し続けた彼は、最後に政治的な理由で実現できなかったコンバーティブルホール、つまり音響的に完全な状態で大小のコンサートからオペラなどに用途転換可能な音楽ホールのアイデアを胸中に帰国し、それをオーチャードホールで実現した。担当していた私には「耳で設計するんだ」と指示した。シドニーの内部は渋谷にある、と私は思っているのだが、それはまぎれもなく音楽への愛が成し遂げたことであった。
三上さんにはもうひとつの側面がある。それは、アラップ事務所時代に担当したダラムの徒歩橋やシドニーの球面シェルから、帰国後の前田ホールに至る、研ぎすまされた構造的合理性による美であり、そこに内在する厳格な規律を今も放ち続けている。
良き建築を生み出すには、この2つの前提「愛」と「規律」が必要なのだ。私のそのような考えは、三上さん御自身のふるまいを通して得たものでもあった。非常に厳しいボスであったが、そのむこうには家庭的な設計事務所でありたいという願いが見え隠れしていたのだ。父を亡くしたに似た喪失感の中で、そのことが静かに思い出される。
建築家 小川真樹